経緯

16世紀、イギリスのエリザベス1世がイギリス国教会を確立したが、17世紀にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特に国教会からの分離を求めるグループは分離派と呼ばれ、弾圧を受けていた。 この為、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗ってアメリカに渡った。[1]1620年に北アメリカ大陸に到着したピルグリムファーザーズは、理想的な社会を建設することをめざした。 入植地をメイ・フラワー号の出航地プリマスに因み、ニュー・プリマスと名づけたとも言われる。[2][要出典]入植当初の状況は厳しく、半年で半数程が病死したが、先住民ワンパノアグ族の協力を得て、ニュー・プリマスはやがて、発展するニュー・イングランドの最初の植民地となった。

しかし後に、先住民との間で対立が発生し、戦闘も起きた。 ワンパノアグ族の酋長マサソイトは平和と友好を保つためにピルグリムと条約を結ぶが、ピルグリムはこの条約を彼らインディアンの土地を自分達が領有して入植してもよいと言う神の暗黙の許可であるとも解釈していた[要出典]。 ピルグリムはまず1630年にマサチューセッツ族が住む土地に進入。ピルグリムの白人が持ち込んだ天然痘により、天然痘に対して免疫力があまりなかったマサチューセッツ族の大半は病死した。 1636年には1人の白人がピクォート族に殺された事が切っ掛けでピクォート戦争が発生。ピルグリムは容疑者の引き渡しを要求したがピクォート族がそれに応じなかったため、ピクォート族の村を襲い、大量虐殺を行った(実は真犯人は白人であった[要出典])。 さらに、平和の条約を結んでいたワンパノアグ族との関係も悪化していった。マソサイトの息子メタコメットは父マサソイトが結んだ条約を不平等条約であるとして、1675年にピルグリムのプリマス入植地を攻撃。こうしてフィリップ王戦争が勃発した。この戦争は周辺部族も巻き込み、1676年に終結するまで、ピルグリムとインディアンの両方共に多くの犠牲者を出した。

Posted on November 5, 2007 by Someone  |  32 comments

ピューリタン

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ピューリタン(Puritan)は、イギリス国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタントの大きなグループ。市民革命の担い手となった。 清潔、潔白などを表すPurityに由来する(Puritanで厳格な人、潔癖な人を指すこともある)。もともと蔑称的に使われていたが、自らもピューリタンと称するようになった。 16-17世紀にイギリス国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派が勢力を持つようになった。その中には国教会から分離せずに教会内部を改革しようとする者と、国教会から分離しようとする者(分離派:他の教派との相互聖餐を拒否)までがいた。特に前者のことをピューリタンと呼ぶ。 ピューリタンの中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者もいる(ピルグリム・ファーザーズ)。オリバー・クロムウェルの清教徒革命(ピューリタン革命、1642年~議会と国王派の内乱状態になる)の母体にもなった。